月別アーカイブ: 2014年1月

蟹クリームコロッケ

私の好物の一つにかにクリームコロッケがある。あのサクッとした衣と、それと対照的にとろ~っとしたかにクリームのギャップ。そしてそのかにクリームの甘さとかにのうまみがたまらなく好きなのだ。
しかしこのかにクリームコロッケ、「今夜の夕飯はかにクリームコロッケにしよう!」と急に思い立って作れるようなものではない。上手く作ろうとすると実質何時間もの時間が必要となってしまう料理なのである。
「こんなとろとろのクリームを、どうやって衣に包んでいるのだろう」と疑問に思ったことはないだろうか。私自身、幼い頃から疑問に思いながら食べていたのだが、大人になっていざ「かにクリームコロッケを作ろう!」と思った時にこの壁に直面したのである。
味からしてホワイトソースにかにを混ぜたものを衣で包んで揚げているという単純なものだと想像はついたので中身のかに入りホワイトソースは簡単に作れた。しかし、それを衣に包もうとしたときにどうしてもべちゃべちゃになってしまって包めないのである。ホワイトソースを硬めに作ってみたりもしたが上手くいかない。
仕方がないので上手く作る方法をネットで検索してみると、こんな方法が見つかった。
①出来上がったホワイトソースを冷蔵庫で冷やす。

②硬くなったホワイトソースを丸めて成形する。この時手に油をつけるとやりやすい。

③成形したホワイトソースを冷凍庫で冷やし固める。

④衣をつけて揚げる。
というように、出来上がったホワイトソースを冷やし固めるために長い時間が必要になるのだ。硬めにホワイトソースを作れば大丈夫だろうと甘く見てきちんと調べなかったことを後悔した。調べて分かった頃にはもう夕飯の時間が迫っていたからだ。仕方がないのでその日は無理やり衣に包んで揚げたが、もちろん形も味も悪い残念なものになってしまった。
後日「リベンジだ!」ときちんとした手段で作ったところ、冷え冷えなので手が冷たくなるという点はあるものの、前回の苦労が嘘のように綺麗に簡単に作ることができた。味も「買ったものよりおいしい」と好評を得て、その後何度か作るうちに、かにクリームコロッケは私の得意料理の一つに加わった。
ちなみに、普段はかに缶のかにで作っているのだが、やはり「缶ではなくちゃんとしたかにの身を使って作ればもっとおいしいはず」と思ってしまう。次の記念日には缶ではないかにを使ってちょっと贅沢なかにクリームコロッケを作ってみよう。きっと更においしくできることだろう。

舌にやきつけておきたい味

せいこがにの漁期は短い。

ズワイガニ漁自体は前年の11月6日に解禁され、翌年の3月20日まで続く。福井で越前ガニと呼ばれる雄のズワイガニはその漁期いっぱいまで楽しめるわけだが、雌ガニである「せいこ」は、通常1月10日に早々と漁期を終えてしまう。

しかも今シーズンは、資源保護のためにさらに10日間の短縮が実施された。つまり、去年の大晦日にはもう漁期が終了してしまっているのだ。

なんとも惜しい話である。年明けから、本当の意味での新鮮なせいこは食べられなくなっているわけだ。いませいこをどこかで口にできるとすれば、冷凍されてかなり時間が経っているものだろう。良心的な店や通販サイトでは、扱い自体をすでに中止している。

越前ガニが冬の福井の味覚の王者であることは確かだが、せいこもまた、充分に魅力的食材である。地元ではむしろせいこのほうが、一般家庭の食卓には定着しているようだ。

せいこはだいたい20~25センチくらいだろうか、越前ガニに較べれば少々小さめのからだのなかに、絶佳、と呼ぶべき身をたたえていて、決して越前ガニにひけをとらないものである。

何より、雄の越前ガニでは味わえない、雌ガニならではの“味の宝物”を、せいこは持っている卵だ。

おなかに抱えている受精卵は外子と呼び、おなかのなかの卵巣部分は内子と呼ぶ。

外子は口中でとろけるようなまろびやかな味わいがあるし、内子のうまさはそれに勝って《赤いダイヤ》と呼ばれるほどである。これだけは、雄である越前ガニでは絶対に真似のできない領域だ。

とはいえ、卵だけがせいこの価値というわけではもちろんない。

小さな体躯にしっかりつまったミソもまた、存分に舌を楽しませる。

それをゆっくり味わったあと、甲羅の中に少しミソを残した状態で日本酒を注ぐ。

これがまた、絶品なのだ。

五臓六腑にしみ渡るとはこういうことをいうのだと、からだ全体で教えてくれているよう

な気がしてくる。

これほどに魅力のつきないせいこがにが、例年より10日も早く禁漁期に入ってしまった。

資源保護が目的であるということは、こういう調整をしているからこそ毎年かにを味わうことができる、ともいえるわけで、業界の配慮には感謝するべきかもしれない。

かもしれないが、しかし、惜しい。

惜しいが、まあ、あまりそのことばかり云いつのっていては、越前ガニにひがまれる。

せいこが味わえない分、越前ガニのうまさを、今年の春先はしっかり舌にやきつけておくとしようか。

お歳暮に越前がに

毎年、お歳暮に越前がにを送ってくださる知人がいます。
それを毎年、大きな蒸し器でふつふつ蒸して、二杯酢でいただくのがわが家の冬の風物詩。主人も子どもたちも、もちろんわたし自身も、これを楽しみに冬を迎える、といっても過言ではないでしょう。
今回はまた、いちだんと大きなかにがわが家に届きました。ひょっとしたら、これを家族みんなで食べるのは、今年が最後かもしれない。いえ、まあ、「最後」っていうのはちょっと大げさかもしれませんが。。。
長男が、春には学校を卒業して遠い街へと働きに出ます。男の子だから、いちどうちを出てしまえばそうこまめに帰ってくることはないでしょう。覚悟はしているつもりでも、やっぱり母親としてはちょっと淋しい。息子の自立を祝ってやらなきゃという気持ちと、
こんなおっちょこちょいがほんとに見知らぬ街でひとりでやっていけるのかしらという心配と、なんで行っちゃうのよ、という、ほんのちょっぴりの怒りに似た気持ちと。いろんな想いを、かにと一緒に蒸し器へ押し込んで、今年もふつふつ蒸し始めます。
そうしておいて、いっときお台所を離れてほかの家事やら雑事やらに追われていると、あっという間に晩ご飯の時間。「なんか変なにおいがしない? こげくさいような」二階からおりてきた次男に言われて、まだ食事の用意ができずにほかのことをしていたわ
たしは、あわてて蒸し器の前へとんでいきました。なんてことでしょう、今日に限って、かにを蒸していることを忘れて家事に没頭してました。大急ぎでふたをとった蒸し器の中から、赤から黒に変色せんとしているかにが、じっとうらめしげな視線を投げかけてくる??ような気がしました。
あ~あ、という、あきれたような、からかうような次男の声を聞きながら、なぜかわたしは笑いがこみあげてきました。蒸し始める時には「これが最後かも」なんて思っていながら、その記念すべき最後の(かもしれない)晩餐を、こんなふうにしくじるなんて、ある
意味わたしらしいかも。親がこれだから、長男がおっちょこちょいなのも仕方がないですよね。やがてその長男も主人も外から帰ってきて、蒸しすぎたかにを囲んでの晩ご飯がはじまりました。感動したのは、越前がには蒸しすぎてもあくまで越前がにであり続けている、ということ。つまり、ちゃんとおいしいのです。
「要は焼きガニだな」と主人が呟いたのを聞いて、なるほど、これはその味に似ている、と納得しました。長男は「最後なんて大げさだよ、暮れとか年始とか、ちゃんと帰ってくるって」なんてあてにならないことを軽い口調で言いながら、でも最後に、ごちそうさまをしたあとで、小声でわたしにだけ聞こえるように、「でもこの味はぜったい忘れないね、いつもと違う味
になってかえってよかったよ、ありがとう」と言ってくれたのでした。わたしの涙を、越前がにのはさみはちょちょ切ってくれないかしら←死語(笑)。

たべたいなあ、今年も。

越前ガニが解禁された。
駅に行けば、福井に誘うポスターが貼られ、あの赤い偉容が湯気をあげている写真を見
る。ラジオを聴けば、通販で、このおいしさがなんとこの価格で、などとやっている。雑
誌をひらけば、漁場へ足を運んでその場で頬張るのが最高、なんぞとあおってくる。
行かねば、と思う。
が、今年はたぶん無理だ。仕事がたてこみすぎて、とてものことにカニだけのために旅路
につく、なんてことはできそうにない。
行ける年は、必ず行って、芳醇な海の果実を味わうのをならいとしている。
時期がくると、うずうずしてくる。からだが、カニを覚えている。
でも今年は無理なのだ。
必死にこらえる。我慢をする。すると、そのぶん魂に力がこめられて、来年のカニはより
深く味わえる……ような気がする。
食べたい時に食べたいだけ食べられるような気軽な食材とはわけが違うのだ。味わうな
ら、魂をこめて味わうべきだろう。だったら、この我慢も滋養になるのかもしれない。
越前ガニよ、待っていろ。
来年は、きっと行くから。
タラバにも松葉にもない、お前にだけあるあの甘みを、しっかりその身にたくわえて、
待っていておくれ。
……畜生、たべたいなあ、今年も。