月別アーカイブ: 2015年2月

福井の野鳥

■福井県大野市、野鳥のレストラン開店!

福井県大野市南六呂師の県自然保護センターにて、先月6日、恒例の野鳥観察イベント窓のガラス越しに野鳥の姿が楽しめる「冬の野鳥のレストラン」が「開店」しました。
野鳥が餌をついばむ姿を室内から観察できるとあってファンに好評で、昨年は期間中2000人もの人が来場したそうです。今年は屋外に写真撮影用の小屋を設置し、多様な楽しみ方を提案しております。2月28日まで。

レストランの「営業開始初日」となったこの日は、雨の中、職員たちが餌台を設置。ヤマガラやゴジュウカラ、カケスなどが次々と現れ、餌をくわえ飛び立つ姿が見られました。同センターの加藤幸洋さんは「暖かい部屋から間近で見られる。野鳥の色や鳴き声、しぐさを楽しんでほしい」とコメントしております。
■2階には餌台・集音マイクを設置
同センターでは毎年、鳥の餌付けを行っており、同イベントは10年前から実施しております。餌台を同センター2階の「森の学習室」の窓の外と塀の上に設置し、ヒマワリの種や混合餌を置きます。枝に雪がかぶり、食べ物が少なくなる冬季、餌台を設置することで、さまざまな種類の野鳥が集まるのが特徴!同センター周辺の林の木々にも餌台や巣箱を取り付け、牛脂やゴミムシの幼虫、果物を用意。集音マイクを通して鳥の鳴き声や餌をついばむ音も楽しむことができます。昨年は珍しいアカゲラ、オオアカゲラなども姿を見せたといいます。また今年は高さ、幅、奥行きともに約2メートルの木製の小屋を準備。林に置いて、さらに近距離で野鳥の姿を写真に収めることができるそうです。

現在時期的に野鳥観察スポットは各地で賑わいを見せているそうです。お近くにありましたら、是非足を運んでみてはいかがでしょうか!

越の国 ⅳ

逢萊祀(おらいし)は福井県今立町に伝わる小正月の行事である。今立市は福井県嶺北地方の中央部にある武生盆地の東端に位置する。その中の粟田部地区は農業を営む一方でその地理的条件などから、この地方一帯の商業や交易の中心地として栄えた地区である。かつてこの行事は有力商人などの地区の財産家の中からくじ引きで当番を決めて、その当番を中心に行事が行われてきた。現在では、この粟田部地区の氏神である岡太神社の氏子で長老格の男性から構成される岡太神社敬正会と、地区の壮年層の男性を中心とする粟田部地区壮年会を中心として行われている。五穀豊穣や無病息災、国家安寧を祈願して餅花、御幣、鏡餅などで飾り付けをした山車を作り、その山車を地区内で引き回すのがこの行事の主な内容である。その由来については諸説あるものの、この粟田部地区には継体天皇が即位する前に、男大迹皇子の頃にこの地にいたという伝承が残されているために、この行事は継体天皇の行幸を模してはじめられたものとも、三里山を中国の神仙思想で説かれている蓬莱山に見立てて山車を作り祝った事が始まりともされている。近世においては、蓑笠を着用しての山車の見物が禁止されているほど厳格に行われていた行事であった。山車の前で祭典が行われた後に、赤い頭巾と羽織を付けた音頭取りと呼ばれる二人の長老がそれに乗り込む。山車は大勢の男性に引かれて神社を後にして太鼓を乗せた囃子屋台に先導されて、山車に乗り込んだ音頭取りの唄う木遣り歌に合わせて粟田部地区をにぎやかに回っていく。山車を引くとその年は病気をしないといわれており、各町内では山車が回ってくると人々は引き手として加わるのだという。また、それぞれの町内では栗の小枝に餅を付けたものが配られるそうだ。山車は氏子総代の家を宿として休憩をとりながら各町内を巡り、最後に岡太神社に戻り、終わりを迎える。

越の国 ⅲ

越前ガニなどでよく知られている福井県に存在する有名な家系に、越前松平家があります。越前松平家は、越前を発祥とする徳川氏の支流で、御家門の一つです。越前松平家といわれることもあれば単に越前家といわれることもあります。越前松平家または越前家という呼称は徳川家康の次男である秀康を家祖とする一門全体を指す場合と、その領地の場所から、福井松平家(福井藩)のみをさす場合とがあるようです。

では、越前松平家の歴史について見ていきましょう。家祖の秀康は長兄の信康が自刃したのちは、家康の長子であったが豊臣秀吉の養子となって徳川家を離れるところから始まります。また、のちに下総結城氏を継いだこともあって、徳川家の家督および将軍職の後継者に選ばれることはなかったのだといいます。関ヶ原の戦いののちは、これまで通りの下総国結城郡の他に越前国北ノ庄(福井県)を与えられました。晩年に秀康は名乗りを結城から松平に戻し、これによって越前松平家が成立します。越前藩は、長男の忠直が継いだのですが、将軍家に反抗的であるなどの理由から、叔父である第二代将軍の徳川秀忠によって元和9(1623)年に現在の大分県である豊後国に配流をされてしまいました。その際に秀康以来の重臣、本多富正や多賀谷村広、土屋昌春、矢野宗喜、雪吹重英らをはじめとする家臣団は、幕命で弟の忠昌が越後高田から移動した際に継承したそうです。ただし忠直の附家老であった本多成重は独立した大名となり将軍家に直属し、弟の直正、直基、直良の分封および越前敦賀郡の没収によって忠昌が入ったころの福井藩は忠直がいた時代からは大幅に減少した50万石になっていました。以後25万石への減封などを重ねながら廃藩時には32万石まで減少し幕末へと至りました。田安家から養子を迎えたために忠昌の血筋は途中で断絶してしまっているとのことです。しかし幕末の越前松平家は、将軍家から養子を迎えたために御家門筆頭とほぼ同じ扱いを受けていたのだといいます。

16世紀には「越前蟹」という名で京都の貴族の日記には記されているそうですから、松平家の方々も「越前蟹」を食していたのでしょうね。そう考えると少し不思議な感じがします。

越前焼

越前焼の歴史は1300年?!

越前焼の歴史は古く、今から850年前の平安時代末期にまで遡ることができます。元々この地方では須恵器を焼いていたそうです。そこから常滑の技術を取り入れ焼き締め陶を作り始めました。最初に釜が築かれたのは越前町小曽原(現在は越前陶芸村があります)と言われており“あな窯”と呼ばれました。約1トンを1300度近い高温で一度に焼き上げる効率の良い構造で、山の斜面をトンネル状に掘って作られていて全長13メートルもあったそうです。常滑から越前まで遠路はるばるやってきた陶工の方達が行っていたと言われています。壺、甕、すり鉢などが主な生産品でしたが、宗教的色彩を持った経筒を納めるための甕なども焼かれていたようです。

室町時代には5トン(甕60個、すり鉢1200個くらい)を一度に焼くことができる全長25メートル以上ある巨大な窯を越前町平等の一か所に集めて大大生産拠点を作っていました。

この地で焼かれる硬くて丈夫な越前焼は越前海岸から船で北海道から島根県までの日本海側で暮らす人々へ届けられ重宝されていました。大きな甕や壺は水や穀物の貯蔵、藍染めなどに使われました。北陸地方最大の窯場へと発展し室町後期には最盛期を迎えていたといいます。

江戸時代中期になると瀬戸もの(瀬戸焼)などに押されるようになり、越前焼は衰退し始めます。古い文献を見ると、平等村の人々が農作業と焼き物作りで生活をしていたこと、燃料となる薪集めや瓶土(べと)と呼ぶ粘土を集めるのにも大変苦労していたことなどがわかります。
江戸時代後期には、甕や壺だけでなく食器類(片口や徳利など)も焼かれるようになり、明治の頃には、美濃、九谷、信楽や瀬戸などから陶工を招いて食器や花瓶作りなども始めました。磁器や色絵陶など試みましたが、どれも定着するまでには至らず、大正時代には窯元の廃業が相次ぎます。
再び注目を集めるようになったのは戦後のことです。日本六古窯に数えられるようになり、越前陶芸村の建設を機に、多くの陶芸家が全国から集まりました。現在は焼き締め陶の伝統を生かしながら新しい作陶が試みられています。この越前陶芸村の周辺では、今、再び新しい歴史が作られ始めています。