越前焼

越前焼の歴史は1300年?!

越前焼の歴史は古く、今から850年前の平安時代末期にまで遡ることができます。元々この地方では須恵器を焼いていたそうです。そこから常滑の技術を取り入れ焼き締め陶を作り始めました。最初に釜が築かれたのは越前町小曽原(現在は越前陶芸村があります)と言われており“あな窯”と呼ばれました。約1トンを1300度近い高温で一度に焼き上げる効率の良い構造で、山の斜面をトンネル状に掘って作られていて全長13メートルもあったそうです。常滑から越前まで遠路はるばるやってきた陶工の方達が行っていたと言われています。壺、甕、すり鉢などが主な生産品でしたが、宗教的色彩を持った経筒を納めるための甕なども焼かれていたようです。

室町時代には5トン(甕60個、すり鉢1200個くらい)を一度に焼くことができる全長25メートル以上ある巨大な窯を越前町平等の一か所に集めて大大生産拠点を作っていました。

この地で焼かれる硬くて丈夫な越前焼は越前海岸から船で北海道から島根県までの日本海側で暮らす人々へ届けられ重宝されていました。大きな甕や壺は水や穀物の貯蔵、藍染めなどに使われました。北陸地方最大の窯場へと発展し室町後期には最盛期を迎えていたといいます。

江戸時代中期になると瀬戸もの(瀬戸焼)などに押されるようになり、越前焼は衰退し始めます。古い文献を見ると、平等村の人々が農作業と焼き物作りで生活をしていたこと、燃料となる薪集めや瓶土(べと)と呼ぶ粘土を集めるのにも大変苦労していたことなどがわかります。
江戸時代後期には、甕や壺だけでなく食器類(片口や徳利など)も焼かれるようになり、明治の頃には、美濃、九谷、信楽や瀬戸などから陶工を招いて食器や花瓶作りなども始めました。磁器や色絵陶など試みましたが、どれも定着するまでには至らず、大正時代には窯元の廃業が相次ぎます。
再び注目を集めるようになったのは戦後のことです。日本六古窯に数えられるようになり、越前陶芸村の建設を機に、多くの陶芸家が全国から集まりました。現在は焼き締め陶の伝統を生かしながら新しい作陶が試みられています。この越前陶芸村の周辺では、今、再び新しい歴史が作られ始めています。