越の国 ⅳ

逢萊祀(おらいし)は福井県今立町に伝わる小正月の行事である。今立市は福井県嶺北地方の中央部にある武生盆地の東端に位置する。その中の粟田部地区は農業を営む一方でその地理的条件などから、この地方一帯の商業や交易の中心地として栄えた地区である。かつてこの行事は有力商人などの地区の財産家の中からくじ引きで当番を決めて、その当番を中心に行事が行われてきた。現在では、この粟田部地区の氏神である岡太神社の氏子で長老格の男性から構成される岡太神社敬正会と、地区の壮年層の男性を中心とする粟田部地区壮年会を中心として行われている。五穀豊穣や無病息災、国家安寧を祈願して餅花、御幣、鏡餅などで飾り付けをした山車を作り、その山車を地区内で引き回すのがこの行事の主な内容である。その由来については諸説あるものの、この粟田部地区には継体天皇が即位する前に、男大迹皇子の頃にこの地にいたという伝承が残されているために、この行事は継体天皇の行幸を模してはじめられたものとも、三里山を中国の神仙思想で説かれている蓬莱山に見立てて山車を作り祝った事が始まりともされている。近世においては、蓑笠を着用しての山車の見物が禁止されているほど厳格に行われていた行事であった。山車の前で祭典が行われた後に、赤い頭巾と羽織を付けた音頭取りと呼ばれる二人の長老がそれに乗り込む。山車は大勢の男性に引かれて神社を後にして太鼓を乗せた囃子屋台に先導されて、山車に乗り込んだ音頭取りの唄う木遣り歌に合わせて粟田部地区をにぎやかに回っていく。山車を引くとその年は病気をしないといわれており、各町内では山車が回ってくると人々は引き手として加わるのだという。また、それぞれの町内では栗の小枝に餅を付けたものが配られるそうだ。山車は氏子総代の家を宿として休憩をとりながら各町内を巡り、最後に岡太神社に戻り、終わりを迎える。

越の国 ⅲ

越前ガニなどでよく知られている福井県に存在する有名な家系に、越前松平家があります。越前松平家は、越前を発祥とする徳川氏の支流で、御家門の一つです。越前松平家といわれることもあれば単に越前家といわれることもあります。越前松平家または越前家という呼称は徳川家康の次男である秀康を家祖とする一門全体を指す場合と、その領地の場所から、福井松平家(福井藩)のみをさす場合とがあるようです。

では、越前松平家の歴史について見ていきましょう。家祖の秀康は長兄の信康が自刃したのちは、家康の長子であったが豊臣秀吉の養子となって徳川家を離れるところから始まります。また、のちに下総結城氏を継いだこともあって、徳川家の家督および将軍職の後継者に選ばれることはなかったのだといいます。関ヶ原の戦いののちは、これまで通りの下総国結城郡の他に越前国北ノ庄(福井県)を与えられました。晩年に秀康は名乗りを結城から松平に戻し、これによって越前松平家が成立します。越前藩は、長男の忠直が継いだのですが、将軍家に反抗的であるなどの理由から、叔父である第二代将軍の徳川秀忠によって元和9(1623)年に現在の大分県である豊後国に配流をされてしまいました。その際に秀康以来の重臣、本多富正や多賀谷村広、土屋昌春、矢野宗喜、雪吹重英らをはじめとする家臣団は、幕命で弟の忠昌が越後高田から移動した際に継承したそうです。ただし忠直の附家老であった本多成重は独立した大名となり将軍家に直属し、弟の直正、直基、直良の分封および越前敦賀郡の没収によって忠昌が入ったころの福井藩は忠直がいた時代からは大幅に減少した50万石になっていました。以後25万石への減封などを重ねながら廃藩時には32万石まで減少し幕末へと至りました。田安家から養子を迎えたために忠昌の血筋は途中で断絶してしまっているとのことです。しかし幕末の越前松平家は、将軍家から養子を迎えたために御家門筆頭とほぼ同じ扱いを受けていたのだといいます。

16世紀には「越前蟹」という名で京都の貴族の日記には記されているそうですから、松平家の方々も「越前蟹」を食していたのでしょうね。そう考えると少し不思議な感じがします。

越前焼

越前焼の歴史は1300年?!

越前焼の歴史は古く、今から850年前の平安時代末期にまで遡ることができます。元々この地方では須恵器を焼いていたそうです。そこから常滑の技術を取り入れ焼き締め陶を作り始めました。最初に釜が築かれたのは越前町小曽原(現在は越前陶芸村があります)と言われており“あな窯”と呼ばれました。約1トンを1300度近い高温で一度に焼き上げる効率の良い構造で、山の斜面をトンネル状に掘って作られていて全長13メートルもあったそうです。常滑から越前まで遠路はるばるやってきた陶工の方達が行っていたと言われています。壺、甕、すり鉢などが主な生産品でしたが、宗教的色彩を持った経筒を納めるための甕なども焼かれていたようです。

室町時代には5トン(甕60個、すり鉢1200個くらい)を一度に焼くことができる全長25メートル以上ある巨大な窯を越前町平等の一か所に集めて大大生産拠点を作っていました。

この地で焼かれる硬くて丈夫な越前焼は越前海岸から船で北海道から島根県までの日本海側で暮らす人々へ届けられ重宝されていました。大きな甕や壺は水や穀物の貯蔵、藍染めなどに使われました。北陸地方最大の窯場へと発展し室町後期には最盛期を迎えていたといいます。

江戸時代中期になると瀬戸もの(瀬戸焼)などに押されるようになり、越前焼は衰退し始めます。古い文献を見ると、平等村の人々が農作業と焼き物作りで生活をしていたこと、燃料となる薪集めや瓶土(べと)と呼ぶ粘土を集めるのにも大変苦労していたことなどがわかります。
江戸時代後期には、甕や壺だけでなく食器類(片口や徳利など)も焼かれるようになり、明治の頃には、美濃、九谷、信楽や瀬戸などから陶工を招いて食器や花瓶作りなども始めました。磁器や色絵陶など試みましたが、どれも定着するまでには至らず、大正時代には窯元の廃業が相次ぎます。
再び注目を集めるようになったのは戦後のことです。日本六古窯に数えられるようになり、越前陶芸村の建設を機に、多くの陶芸家が全国から集まりました。現在は焼き締め陶の伝統を生かしながら新しい作陶が試みられています。この越前陶芸村の周辺では、今、再び新しい歴史が作られ始めています。

越の国 ⅱ

越前の歴史を振り返ってみたいと思う。越前は越前ガニや越前和紙など様々な海産物や伝統工芸などで有名だが、現在の越前がどのようにして形成されたのかを越前の過去を振り返ることで考えてみたいと思う。室町時代、室町幕府の官僚だった斯波氏との関わりが深かった味真野で越前守斯波義康の子孫が鞍谷氏と名乗って力を振るった。味真野は世阿弥の能の一曲である「花筐」の舞台になったところで継体大王に関する伝説も数多く残されているという。戦国時代に入ると、この地で絶大な力を振るっていた朝倉氏を滅ぼして、一向一揆を打ち破った織田信長が府中を中心とした三郡合わせて十万石を不破光治、佐々成政、前田利家の三人に支配させたという。この三人は府中三人衆と呼ばれ協議制で領内を治めたそうだ。佐々成政の居城であった小丸城跡には今も一部に当時の石垣が残されているという。また、府中で大名となった前田利家は城を築いて家臣団を形成した。こうして前田百万石の礎はここ、府中の地で築かれたものだったのだという。関ヶ原の戦いが終結し、江戸時代に入ると福井藩が形成され結城秀康がその藩主となった。家臣の本多富正は徳川家康の信頼を受け福井藩の付家老として秀康に従い、三万九千石の府中領主になったという。富正は戦乱のために荒れ果てていた府中の整備や日野川に治水工事、用水、道路工事などに着手をしたという。また、打ち刃物や織物などの産業の発展にも力を尽くして今の府中の基礎を築いた。本多家は明治維新まで9代にわたって府中領主としてこの地の支配を続けることとなった。歴代領主をはじめとして一族は龍泉寺に葬られているという。越前の歴史を振り返ってみて、これらの時代に築かれた文化や遺跡などが今の時代まで残されてまた越前の文化の基礎としても重要な役割を果たしていたということがわかった。この過去があったからこそ今の形の越前が築かれているのだろう。

もうすぐ水仙・カニフェア

越前町では毎年「水仙・カニフェア」が開催されています。その少し前から水仙まつりも開催されています。越前海岸に咲く水仙は日本水仙で、日本で数少ない野生の水仙の群生地でもあり、日本水仙三大群生地の一つに数えられています。(他は千葉県房総半島、兵庫県淡路島です。)日本水仙は福井県の県花でもあります。

「越前水仙」とは越前海岸に咲いている日本水仙の総称で、他の日本水仙に比べますと花が長持ちする、また香りは甘く清楚でみかんの匂いにも少し似ています。香りが豊かなのも特徴の一つです。山の斜面が一面白いじゅうたんのようになり、清楚な香りに包まれます。凛とした姿は、「雪中花」とよばれ、福井県の冬に風物詩になっています。
開花は12月頃から2月くらいの間ですからお正月の生け花としても重宝されています。

もうすぐ水仙・カニフェアが開催されます。フェアでは水仙娘さんによる水仙の手渡しや越前がになどの新鮮な海産物の即売市、グルメを味わえます。越前ガニも一段と美味しい季節!越前にぜひ遊びに来てください。お待ちしています!

越の国

越前ガニや越前和紙で有名な越前地方。その中の越前市は越前の国府が置かれ、中世には府中として呼ばれるなど越前地方の中心地として栄えた歴史のある街である。大和時代には敦賀から新潟あたりまでが「越の国」として呼ばれていたという。この頃にのちの越前に勢力を持っていた男大迹の王は507年に即位して継体大王となった。その頃の越前の武生盆地は経済、文化の中心地であったと考えられている。奈良時代に入ると朝廷による蝦夷征伐が盛んにおこなわれるようになる。この頃になると越前は蝦夷征伐の最前基地として、また北陸の玄関として重要性を増すことになった。武生には越前の国府が置かれ、経済、文化だけでなく、政治の中心地としても栄えることとなった。平安時代には「源氏物語」の作者として有名な紫式部が生涯にただ一度だけ、都を離れて越前の地で生活をしている。紫式部は越前国守となった父の藤原為時について一年半余り武生で暮らしたのちに、藤原宜考と結婚するために都へと戻ったのだという。紫式部にとって「源氏物語」執筆の際に武生での生活は貴重だったようで「源氏物語」にも武生の地名が度々登場しているという。のちの約60年にわたる騒乱が続いた南北朝時代には、この府中も何度か戦場になったという。なかでもとりわけ激しい戦いとなったのが、南朝方の新田義貞の軍と北朝方の越前国守護である斯波高経が戦った日野川の戦いである。この戦いで新田義貞は斯波氏の居城を攻め落として斯波軍は福井県の足羽上に逃れたという。現在の福井市で新田義貞が戦死したことによって南朝と北朝の形成は逆転して再び府中は戦乱に巻き込まれることになった。この時の戦いによって南朝側は追い払われることになり、府中における南北朝の戦いはようやく終わりを迎えることとなる。このように越前は日本の歴史を形成していくうえで経済、文化、政治などの面で様々な影響をもたらしているほかに、それゆえ大きな争いにも巻き込まれてきたということがわかる。しかし、このような過去があったからこそ現在の越前が形成されているのだと考えるととても興味深い。

“カニトマトクリームパスタ”

先日、なんと越前ガニをもらいました。もちろん“頂き物”を分けて頂いたのですが。

カニの身を全部だしてから調理をしよう(子どもが蟹は大好きだけど、皮膚が弱いので素手で持って食べると少しかゆくなってしまう)と思いネットでカニレシピ探していました。

殻ごと味噌汁にという美味しそうなレシピも魅力的でしたが、今日は、ほぐした身&カニ味噌を使ったレシピで…  カニのクリームパスタがいいかも!味噌も入れて作ってって書いてあるし、何よりとても美味しそう。にんにくも、残ってる生クリームも、トマト缶は常備してあるから、よし調理開始~、私の中ではトマト&クリームのパスタは贅沢感のあるパスタで、それにカニの身&カニ味噌も入れるなんて…なんてなんて贅沢(笑)。

最後の皿に残ったソースまでフランスパンと食べました。レストランで食事をしたかのような美味しさでした。

越前ガニをくれた方、カニトマトクリームパスタレシピを載せてくれた方にすごく感謝したいです!

また越前ガニ来ないかな~。

ダンゴムシの真実

先日、3歳の娘と某子供向け番組を見ていたときのこと。

「ダンゴムシと同じ仲間はどれ?1、ちょうちょ 2、エビやカニ 3、へび」(三択内容はうろ覚え)という問題が流れた。登場キャラクターたちが「1番のちょうちょ~!」と答えると「答えは…2番のエビやカニの仲間」という衝撃の答えが…!「ええ~っ!」と驚くキャラクターたちと一緒にテレビの前で驚く私と、それを見て真似して驚く娘(笑)
まさかダンゴムシが甲殻類だったとは…。でも考えてみれば、足が6本じゃない(14本らしい)時点で虫ではないと気付き、なんだか一人で恥ずかしい気分になってしまった。しかし、ダンゴムシが虫じゃないとしても、なんとなく甲殻類=水中生物というイメージがあったから甲殻類だったことにはやはり意外性を感じる。

「こいつはエビやカニと同じ仲間なのか…」と思いながら、自宅の庭の石の影でうろちょろしているダンゴムシを見つめていると、その姿が最近テレビで観たある生物と重なった。それはダイオウグソクムシ。何年も餌を食べることを拒否し、「今月も捕食せず」とニュースになり、水族館ではぬいぐるみが人気だという深海生物。最近とうとうお亡くなりになってしまったそうだが、あれにもダンゴムシ同様「ムシ」という名が付けられているなと思い調べてみたところ、やはりダイオウグソクムシも甲殻類らしい。ただ、ダンゴムシよりはフナムシに近いようだ。そして、ここで気になる記述を発見。「素揚げにすると美味らしい」…え?あれ…食べるの?どうやら、地域によっては食べるところもあるらしい。やはり甲殻類だから、エビやカニと同等という考えなのかもしれないが、あの厳ついダイオウグソクムシを最初に食べた人はなかなかのチャレンジャーだと思う。ちなみに、ダンゴムシも食用がいるという。ポップコーンのように炒って、弾けた頃が食べ頃☆だそうだ…。衝撃すぎて何も言えない。ほのぼの子供番組をきっかけに、とんでもないダンゴムシの真実を知ってしまった。

カニの歴史(越前ガニ)

冬の味覚の王様であり、福井県の特産品でもある越前ガニ。一体越前ガニは、いつから越前ガニとして人々にここまで愛されるようになったのか。その歴史を探ってみよう。

越前ガニ、という名称は安土桃山時代に三条西実隆によって書かれた日記の中に書かれている記述がその最古であるらしい。永正15(1511)年3月20日の日記には「伯少将送越前蟹一折」翌21日の日記には「越前蟹一折遣竜崎許了」と書かれている。三条西実隆は京都に住んでいたというので、安土桃山時代にはすでに越前で獲られた越前ガニが京都まで運ばれていたということがわかる。また越前ガニというブランド名がつけられているカニは和名をズワイガニというのだが、ズワイガニという名称が出てくる最も古い記録は今をさかのぼること300年前の江戸時代の享保年間に書かれた『越前国福井領産物』である。ズワイガニの語源については諸説あるが、最も信頼できそうなものは漢字の「楚」に由来するというものであるという。この字は古くは若い枝の細くまっすぐなものの事を意味し、これがなまって「ズワイ」となったといわれている。ズワイガニの手足の細長さをよく表した名前であるといえる。「すわえ」とも読まれ1600年代には全国に先駆けて若狭湾の沖合で舟を錨で固定し、網を手で手繰り寄せる「沖手繰り網」が行われるようになり、1700年代には風力を利用して網を引き回す「打瀬網」が行われるようになったためにより深いところでの漁に成功。越前ガニの漁獲量は徐々に増加をしていっていたと考えられる。ちなみに、現在は底引き網漁が行われている。その後越前ガニは明治時代から代々の天皇に三国港で獲れたカニを献上しているために、献上ガニとしても知られている。献上は大正11(1922)年から戦後3年間と昭和天皇崩御の年を除き、毎シーズン行われているという。

越前がにはズワイガニ!

カニがおいしい季節がやってきた。一口にカニ、といってもその種類は様々である。数多くあるカニの種類の中のその中の一つが越前ガニである。越前ガニとは一体どのような種類のカニなのだろうか。実は越前ガニという名前のカニは存在しないのだ。越前ガニというのは、カニの種類ではなくブランド名である。越前ガニ、というブランド名がついているカニはズワイガニという種類のカニである。越前ガニの他にも、水揚げされる地域によって松葉ガニ、間ガニ、津居山ガニ、加能ガニなどの様々なブランド名があるようだ。所属港ごとに発行されるタグをカニの足に取り付けて他のカニと区別している。

ズワイガニは深海に生息する食用のカニで日本の他にもロシア、アメリカ合衆国のアラスカ州、カナダなどに生息しているようだ。日本においては山口県以北の日本海、茨城県以北の北太平洋、オホーツク海などに生息しているという。おもな生息域は水深200~600mの深海で、0度から3度くらいの水温を好むという。深海域に生息しているために、脱皮、季節移動、寿命などの細かい生態についてはあまり解明されていない。ズワイガニは雑食性だが肉食性が強く、貝類や多毛類を食べるという。また、海底に落ちた魚介類等の死骸や脱皮した自分自身の殻まで食べるらしい。冬の味覚として名高いカニであるというのにそんなものを食べて大きくなっているなんて驚きである。暗赤色の体に10本の足が生えている。足の長さは大きなオスだと広げた状態で70センチほどになるものもいるそうだ。ズワイガニはオスとメスを比較してオスの方が格段に大きく、オスの甲羅の幅は大きいもので14センチほどだが、メスはその半分くらいだという。オスとメスではあまりにも大きさが違うために越前ガニなどのブランド名をつけられるのはオスのズワイガニである。ちなみにズワイガニの「ズワイ」というのは、細い枝を指す古語である「すわえ」がなまったものだという説がある。

普段から、冬の味覚として塩ゆでやカニ鍋としてなんとなく口にしている越前ガニであるが、調べてみるとなかなか興味深い点がたくさんある。カニ、と一口に言ってもなかなか奥が深い。たまには自分の身近な食材などについて調べてみると新たな発見がたくさんあって面白いかもしれない。