越前ガニや越前和紙で有名な越前地方。その中の越前市は越前の国府が置かれ、中世には府中として呼ばれるなど越前地方の中心地として栄えた歴史のある街である。大和時代には敦賀から新潟あたりまでが「越の国」として呼ばれていたという。この頃にのちの越前に勢力を持っていた男大迹の王は507年に即位して継体大王となった。その頃の越前の武生盆地は経済、文化の中心地であったと考えられている。奈良時代に入ると朝廷による蝦夷征伐が盛んにおこなわれるようになる。この頃になると越前は蝦夷征伐の最前基地として、また北陸の玄関として重要性を増すことになった。武生には越前の国府が置かれ、経済、文化だけでなく、政治の中心地としても栄えることとなった。平安時代には「源氏物語」の作者として有名な紫式部が生涯にただ一度だけ、都を離れて越前の地で生活をしている。紫式部は越前国守となった父の藤原為時について一年半余り武生で暮らしたのちに、藤原宜考と結婚するために都へと戻ったのだという。紫式部にとって「源氏物語」執筆の際に武生での生活は貴重だったようで「源氏物語」にも武生の地名が度々登場しているという。のちの約60年にわたる騒乱が続いた南北朝時代には、この府中も何度か戦場になったという。なかでもとりわけ激しい戦いとなったのが、南朝方の新田義貞の軍と北朝方の越前国守護である斯波高経が戦った日野川の戦いである。この戦いで新田義貞は斯波氏の居城を攻め落として斯波軍は福井県の足羽上に逃れたという。現在の福井市で新田義貞が戦死したことによって南朝と北朝の形成は逆転して再び府中は戦乱に巻き込まれることになった。この時の戦いによって南朝側は追い払われることになり、府中における南北朝の戦いはようやく終わりを迎えることとなる。このように越前は日本の歴史を形成していくうえで経済、文化、政治などの面で様々な影響をもたらしているほかに、それゆえ大きな争いにも巻き込まれてきたということがわかる。しかし、このような過去があったからこそ現在の越前が形成されているのだと考えるととても興味深い。