越の国 ⅲ

越前ガニなどでよく知られている福井県に存在する有名な家系に、越前松平家があります。越前松平家は、越前を発祥とする徳川氏の支流で、御家門の一つです。越前松平家といわれることもあれば単に越前家といわれることもあります。越前松平家または越前家という呼称は徳川家康の次男である秀康を家祖とする一門全体を指す場合と、その領地の場所から、福井松平家(福井藩)のみをさす場合とがあるようです。

では、越前松平家の歴史について見ていきましょう。家祖の秀康は長兄の信康が自刃したのちは、家康の長子であったが豊臣秀吉の養子となって徳川家を離れるところから始まります。また、のちに下総結城氏を継いだこともあって、徳川家の家督および将軍職の後継者に選ばれることはなかったのだといいます。関ヶ原の戦いののちは、これまで通りの下総国結城郡の他に越前国北ノ庄(福井県)を与えられました。晩年に秀康は名乗りを結城から松平に戻し、これによって越前松平家が成立します。越前藩は、長男の忠直が継いだのですが、将軍家に反抗的であるなどの理由から、叔父である第二代将軍の徳川秀忠によって元和9(1623)年に現在の大分県である豊後国に配流をされてしまいました。その際に秀康以来の重臣、本多富正や多賀谷村広、土屋昌春、矢野宗喜、雪吹重英らをはじめとする家臣団は、幕命で弟の忠昌が越後高田から移動した際に継承したそうです。ただし忠直の附家老であった本多成重は独立した大名となり将軍家に直属し、弟の直正、直基、直良の分封および越前敦賀郡の没収によって忠昌が入ったころの福井藩は忠直がいた時代からは大幅に減少した50万石になっていました。以後25万石への減封などを重ねながら廃藩時には32万石まで減少し幕末へと至りました。田安家から養子を迎えたために忠昌の血筋は途中で断絶してしまっているとのことです。しかし幕末の越前松平家は、将軍家から養子を迎えたために御家門筆頭とほぼ同じ扱いを受けていたのだといいます。

16世紀には「越前蟹」という名で京都の貴族の日記には記されているそうですから、松平家の方々も「越前蟹」を食していたのでしょうね。そう考えると少し不思議な感じがします。