福井県越前市東千福町に全国でも珍しい寝殿造庭園の公園があります。…その名称は「紫式部公園」。昭和58年(1983年)の都市計画事業に伴って建造されたとのことです。
紫式部といえば平安時代中期の女流作家・歌人で、源氏物語の作者としても、百人一首57番の作者で、中古三十六歌仙の一人としても有名ですよね。
紫式部と越前市はどんな関係があるのでしょうか?
■武生市に訪れた経緯
紫式部が、都(現在の京都)を離れて越前の国(現在の福井県武生市)に向かったのは、長徳2年(996年)の夏であったとされています。官途から遠ざかっていた父の藤原為時が、春の除目で帝に文を奉り、やっと大国である越前の国守に任じられ、式部はその父とともに国府があった現在の福井県武生市にやってきたのです。天延元年(973年)に生誕した説に従えば式部23歳のころでした。
「紫式部集」によれば、当時彼女には、「姉妹」の契りを結んだ親友がいました。式部はたった一人の姉を失い、友人は妹を失い、お互いを慰めあっていました。ところが父に従って式部は越前へ向かうことが決定し、同じくその親友も筑紫へ向かうこととなり、二人は離れ離れになることになってしまったのでした。その時を示す和歌が以下のものになります。
◇北へゆく雁のつばさにことづてよ雲の上がきかき絶えずして」
(北へ帰っていく雁の翼をかりて便りをください。雲の上を掻くように何度も書いて下さいね。)
◇行きめぐり誰も都にかへる山いつはたと聞く程のはるけさ
(遠く離れた国々をめぐり歩いても、やがては誰もが都に帰るのでしょうが、「かへる山」「いつはた」というあなたが向かうお国の地名を聞くにつけても、はるか先のように思われてしまいます。)
前者が紫式部のもので、後の歌は友人の返歌です。「かへる(鹿蒜・帰)」とは(現在の福井県南条郡今庄町)、「いつはた(五幡)」とは(現在の福井県敦賀市の東部)のことを指していて、ともに越前の国の地名だったといいます。 …つづく