お歳暮に越前がに

毎年、お歳暮に越前がにを送ってくださる知人がいます。
それを毎年、大きな蒸し器でふつふつ蒸して、二杯酢でいただくのがわが家の冬の風物詩。主人も子どもたちも、もちろんわたし自身も、これを楽しみに冬を迎える、といっても過言ではないでしょう。
今回はまた、いちだんと大きなかにがわが家に届きました。ひょっとしたら、これを家族みんなで食べるのは、今年が最後かもしれない。いえ、まあ、「最後」っていうのはちょっと大げさかもしれませんが。。。
長男が、春には学校を卒業して遠い街へと働きに出ます。男の子だから、いちどうちを出てしまえばそうこまめに帰ってくることはないでしょう。覚悟はしているつもりでも、やっぱり母親としてはちょっと淋しい。息子の自立を祝ってやらなきゃという気持ちと、
こんなおっちょこちょいがほんとに見知らぬ街でひとりでやっていけるのかしらという心配と、なんで行っちゃうのよ、という、ほんのちょっぴりの怒りに似た気持ちと。いろんな想いを、かにと一緒に蒸し器へ押し込んで、今年もふつふつ蒸し始めます。
そうしておいて、いっときお台所を離れてほかの家事やら雑事やらに追われていると、あっという間に晩ご飯の時間。「なんか変なにおいがしない? こげくさいような」二階からおりてきた次男に言われて、まだ食事の用意ができずにほかのことをしていたわ
たしは、あわてて蒸し器の前へとんでいきました。なんてことでしょう、今日に限って、かにを蒸していることを忘れて家事に没頭してました。大急ぎでふたをとった蒸し器の中から、赤から黒に変色せんとしているかにが、じっとうらめしげな視線を投げかけてくる??ような気がしました。
あ~あ、という、あきれたような、からかうような次男の声を聞きながら、なぜかわたしは笑いがこみあげてきました。蒸し始める時には「これが最後かも」なんて思っていながら、その記念すべき最後の(かもしれない)晩餐を、こんなふうにしくじるなんて、ある
意味わたしらしいかも。親がこれだから、長男がおっちょこちょいなのも仕方がないですよね。やがてその長男も主人も外から帰ってきて、蒸しすぎたかにを囲んでの晩ご飯がはじまりました。感動したのは、越前がには蒸しすぎてもあくまで越前がにであり続けている、ということ。つまり、ちゃんとおいしいのです。
「要は焼きガニだな」と主人が呟いたのを聞いて、なるほど、これはその味に似ている、と納得しました。長男は「最後なんて大げさだよ、暮れとか年始とか、ちゃんと帰ってくるって」なんてあてにならないことを軽い口調で言いながら、でも最後に、ごちそうさまをしたあとで、小声でわたしにだけ聞こえるように、「でもこの味はぜったい忘れないね、いつもと違う味
になってかえってよかったよ、ありがとう」と言ってくれたのでした。わたしの涙を、越前がにのはさみはちょちょ切ってくれないかしら←死語(笑)。